『十三神士・竜主伝』

その英雄の名は、アンリ・ラムリヒト。 《青銀の魔王》という異名を以って忌み怖れられ、後に《聖竜の騎士》という尊名を授かりし者。 鮮烈なる彼の戦いの始まりは、時の権力者達の残酷なる仕打ちに対する復讐であった。 彼には、亡き両親に代わって守って来た妹であるフィリアという存在がいた。 そして、運命は彼等兄妹に残酷な宿命を与えるのである。 帝国から巡察に訪れた現皇帝妃の実弟であるアンヴィリア公・ガーヴェンの一行を見物に行ったアンリは、些細な諍いが原因でフィリアと別れはぐれてしまい、その身を心配し、必死の想いで探すが、それも空しく、フィリアは俗物であるガーヴェン達の醜い欲望の犠牲となって、辱めを与えられてしまう。 アンリは、傷付いたフィリアを救出し、主であるラニグ侯爵の勧めに従い帝国宮廷議会にガーヴェンの仕打ちを訴えるが、逆に反逆者とされ追われる身となってしまった。 深く絶望し、死を求めるアンリに、ラニグ侯爵は、騎士の誇りを以ってフィリアを守り抜く事を誓わせる。 そして、アンリは、その誓いを果たす為、フィリアと共に旅に出るのであった。 更なる苛烈な運命へと連なる旅へ・・・。

2007年12月2日日曜日

第一話・始まりの悪夢

  『十三神士・竜主伝』



 月無しの暗闇の許、一人の青年が、眼下に広がる帝都を満たし輝く篝火の群れを見下ろしていた。
「終に、明日は最後の決戦だ。これで全てが終わる」
青年は、その静かな眼差しの内に烈しい迄の想いを隠し宿して呟いた。
「《サーリア》、お前の心も明日の決戦に奮い起っているのか?」
青年は眼差しを細めて、自らが身体を凭れ掛けているその存在へと、問い掛けの言葉を向ける。
それに応えて、青年の背中を預かっていた小山が僅かに揺れる。
『主たる貴方の望みが叶うと思えば、我が心もまた嬉しきもの。その為に心奮い起たない筈はありません』
獣達の王者たる《竜》は、その偉観な体躯に似つかわぬ美しく澄んだ声で答える。しかし、その言葉の内には、僅かな憂えが含まれていた。
「そうだな、やっと俺が抱き続けてきた望みが叶えられるのだ。帝都の奥に隠れるあの獣(ケダモノ)達への復讐を果たすという渇望をな。自分達がした浅ましき外道の行いを思い出し、この《青銀の魔王》」が与える悪夢の中で、最後の一晩を大いに楽しむが良い」
 青年は、帝国の人々が自らへと名付けた忌まわしき異名を喜んで受け入れ、彼等への呪いの言葉を告げ返した。
「俺は、お前達に与えられた最後の悪夢を見ながら、その悪夢から覚める明日の為の眠りに就こう」
 《青銀の魔王》と呼ばれる青年、アンリ・ラムリヒトは、永い歳月その心を苛んできた辛い悪夢との別れを喜ぶように、暗い闇を宿した笑みを浮かべて、眠る為にその瞳を閉じた。
 アンリの守護流たる《サーリア》は、何故か僅かに哀しげな咆哮を洩らし、主に合わせる様に、その黄金の瞳を閉じた。

 夜の闇を吹き抜ける風が《青銀の魔王》とアンリが呼ばれる由来となった、その青銀色の髪を優しく撫でてゆく中、眠るアンリの心に、過ぎ去ってしまった日々の、懐かしく、そして哀しい記憶が夢として甦る。
 それは、愛しき一人の少女と共に過ごした過去の日々の記憶でもあった。



「あっ、お帰り、おにいちゃん!」
少女は、花を愛でていた花壇越しに、兄であるアンリの姿を見つけると、嬉しそうに微笑みながら、声を掛けてくる。
「唯今、フィリア」
 アンリは、微笑み返しながら、妹である尾フィリアへと挨拶を返した。
「それで、どうだったの?」
「勿論、大丈夫だったよ。これで俺も、晴れて父さんと同じ騎士の一員だ」
 アンリは、フィリアの尋ねる騎士試練の結果に対し、快心の笑みを浮かべて答える。
 それを聴いて、フィリアの表情が更に明るくなる。
「おめでとう、お兄ちゃん!」
 フィリアは、湧き上がる喜びを抑えきれずに駆け出し、アンリへ抱きついた。
「ありがとう、フィリア」
 アンリは、フィリアの祝辞と熱い抱擁に笑顔で応えたるが、その表情は何処か浮かないものであった。
 フィリアは、その事に気が付いて訝る。
「お兄ちゃん、どうかしたの?折角、夢が叶って騎士になれたのに、余り嬉しくなさそう・・・」
「嬉しくない訳じゃないよ。騎士になれた事は、本当に嬉しい。でも、これからは騎士見習いであった今迄のようにはいかなくなる。ラニグ侯は、俺にこの侯爵領の騎士団ではなく、帝都の騎士団の一員となる事を望んでくださっているのだ。侯は、既にその為の推薦状も用意してくださっている。それは俺にとって、名誉であり光栄な事でもある。しかし、
俺はお前を独り残して、帝都に行くことは出来ない」
 アンリ達兄妹の母親は、二人が幼い頃に病で亡くなっており、父親も又、主であるラニグ侯爵を戦場で庇って、五年程前に亡くなっていた。
 アンリは、自分が帝都に行ってしまう事で、唯一の肉親であるフィリアを、独りにしてしまう事を心配していたのである。
 そのアンリの言葉を聴いて、フィリアは安堵の笑みを浮かべた。
「なんだ、そんな事だったのね。お兄ちゃん、私の事なら心配要らないわ。私だってもう十五才なのよ。もう、お母さんやお父さんが死んでしまった頃の様な幼い子供とは違う。だから、お兄ちゃんが帝都に行ってしまっても、ちゃんと独りで遣って行けるわ。それに、侯爵様だっていらっしゃるのだから、私が独りで困った時には、きっとお力になってくださる筈。だから、お兄ちゃんは、何の心配もする必要はないわよ」
「そうか・・・、お前も何時の間にか、自分の事どころか他者の事迄も考えられる程に成長したのだな。フィリア、ありがとうな」
 アンリは、フィリアが語った言葉の中に、騎士となった自分の足手纏いにはなりたくな
いという想いを感じ取り、その優しい心遣いに感謝の言葉を告げた。
「感謝するのは私の方よ。何時もお兄ちゃんに、迷惑を掛けてばかりだった。でも、これからは違う。だから、お兄ちゃんもこれからは自分の事を優先させて、帝都で一番の騎士様になって。お願いよ」
「分かった、約束する。でも、俺がお前の兄である事は、何時までも変わりはしない。だから、甘えたい時には、幾らでも甘えて良いのだからな」
 アンリは、フィリアに兄としての想いを告げて微笑んだ。
「それじゃ、早速その言葉に甘えて、明日は、帝都から来る巡察団を、観に連れって行ってね、お兄ちゃん」
 アンリは、フィリアのお願いを聞いて、明日、帝国より騎士兵団の一団が、自分達の暮らす、このラニグ侯爵領を視察の為に通る事を思い出す。
「巡察団か・・・。帝国の騎士兵団が、どのような存在で在るのかを実際に知るのには丁度良い機会だな。それに、可愛い妹の頼みでもあるし、よし分かった。一緒に行こう、フィリア」
 アンリは、快くフィリアのお願いを受け入れる。
 しかし、それこそが自分達兄妹を苛む、残酷な悪夢の始まりである事を、二人が知る由も無かった。


 翌日、アンリは、フィリアと共に、帝都から巡察に遣って来る帝国騎士兵団を見物する為、街外れに在る高台へと来ていた。
 そこは既に来ていた先客達が犇めき合い、かなり賑わっていた。
「凄いね、お兄ちゃん。もう皆、こんなに集まっているわ」
「まあ、他の楽しみが少ないここら辺りでは、帝国から来る騎士兵団を見物するのは、格好の暇潰しになるのだろう。そう言っている俺達も同じ様なものなのだけどな」
 アンリは、苦笑混じりにフィリアへと応えて、他者の事を笑えぬ我が身を顧みる。
 そんな遣り取りを交わすアンリ達の前方で、一際(ひときわ)大きなざわめきが巻き起こった。
「どうやら、巡察団が到着したみたいだな」
「えっ、嘘!前の人達が邪魔で全然見えないよ。よし、えいっ!」
 フィリアは、困惑した後、良い考えを思いついたという表情を浮かべると、気合いの一声と共にアンリの背中に負ぶさった。
「あっ、見える!見える!へぇー、凄く立派な姿ね。まるで王侯貴族の一行みたい」
 突然の事に、バランスを崩しそうになり、それを必死に保とうとする兄の苦労に構わず、フィリアは興奮のままに歓声をあげた
「あれは、ガーヴェラ皇妃様の実弟に当たるガーヴェン公爵が率いる《斧鎗親衛騎師団(トリシュール)》だそうだ」
「ほう、流石に皇妃様の実弟である公爵様ともなると、羽振りが違うな」
「まあ、あの公爵様の兵団だけは、他の騎士兵団と比べても特別という事だな」
 周囲の誰からともなく、巡察団に関する事が語られ、それに対し又誰かともなく、羨望混じりに言葉が返される。
「お兄ちゃん、見て!見て!あれがきっと騎士団長のガーヴェン様よ。それにしても、凄く派手な格好だね。ラニグ侯爵様とは大違いだわ」
「質実剛健を好むラニグ侯とは、考えが違うのだろう。まあ、或いは、帝都で皇妃様の弟君として暮らして行く為には、あれ位に派手な見た目も必要なのかもしれないな。えっ!」
 アンリは、話題に上げていたガーヴェン公爵と思わしき相手へと眼差しを遣った一瞬、僅かながら視線が合わさった様な気がして、それ以上の言葉を飲み込んで口を噤んだ。
「今、公爵様がこっちの方を見ていたね」
「ああ・・・、そうだな」
 まさか、自分達が口にしていた不敬とも取られかねない遣り取りが、相手の耳に達したとは思わないまでも、アンリは、妙にガーヴェン公爵の視線の事が気に掛かり、フィリアへと気の無い返事を返してしまう。
「余り良く見えないね。もっと近く迄行ってみようよ」
 フィリアは、そう言ってアンリの背中から下りると、アンリの返事も待たずに、人々の群れの中へ分け入って行ってしまう。
「待つんだフィリア!逸れて迷子にでもなったらどうするのだ」
アンリは、慌ててフィリアを呼び止めると、その手を摑んだ。
「迷子になっても平気よ。もう、子供ではないのだから、ちゃんと独りで家まで帰れるわ」
 フィリアは、アンリが自分の事をやはり子供扱いしてしまうのが面白くないか、摑まれた手を多少乱暴気味に振り解いて、そのまま人々の群れの奥へと消えてしまった。
「フィリア・・・」
 アンリは、妹の自主性の芽生えを尊重するべきだとは思いながらも、心に嫌な予感を覚えて、直ぐにその後を追う為に人々の波へと飛び込んだ。


 普段なら人通りも疎らな町の中も、今回のように特別な日には、唯一人の捜し求める相手を見つけ出すことが極めて困難となる。
 アンリは、犇めき合う人々の群れの中で完全に逸れてしまった妹フィリアの姿を見つけられず、人の波に揉まれながら虚しく駆けずり回っていた。
「フィリア、一体何処にいるのだ・・・」
 焦燥に駆られる思いを必死に堪えているアンリの口から、応えてくれる相手の無い言葉が自然に零れ出る。
 募る不安に耐えて、尚もアンリは周囲の人々の群れに妹の姿を探し続けた。
 フィリアも又、逸れてしまった事に不安を覚え、先刻の言葉通り、独りで先に家へと帰り着いている。
 そんな期待を抱き、家の方へと帰りかけたアンリは、直ぐに思い止まって踵を返した。
期待した通りに、フィリアが家へと戻っているのならば、何の心配も無い。
 しかし、若しもそうで無かったならば、万が一の事が起きてからでは遅いと、その身を案じたからであった。
 アンリは、その万が一を心配して、もう一度フィリアの姿を探す為、早足に駆け出した。
 そして、見知った顔があれば、その全てに妹の姿を見なかったかを尋ね訊く。
 その甲斐があって、アンリはフィリアが、巡察団の騎士の一人と共に歩いている姿を見たという話を、馴染みの人間から教えられた。
 アンリは、何故にフィリアが巡察団の騎士と一緒に居たのかを訝るが、その事を悪く考えはせず、巡察団の宿舎となっている館へと急いだ。

 アンリは、街の外れにある件の館の前まで来ると、正門の所で警護番をしている騎士達へと事情を説明し、妹の事を何か知らないかと尋ねる。
「お前の妹?そんな者はここへはきておらん。何処か別の所を探すのだな」
「しかし、私の知り合いが、貴方達、巡察団の騎士のお一人と、妹が共に居る姿を見たと言っておりました。申し訳在りませんが、他の騎士の方々にも妹の事を尋ねていただけませんか。きっと何方かご存知の方が居る筈ですから」
 アンリは、相手の高圧的な態度にも我慢し、フィリアの行方について、他の騎士達にも確かめて貰える様懇願した。
「フンッ、この俺達が知らぬと言っているのだ。他の誰も知っている筈が無かろう。余りしつこい事を言っていると、痛い目を見る事になるぞ!」
「分かったなら、大人しく帰れ!」
 門番の騎士達は、いきり立つと威圧的な態度でアンリを脅しつける。
 そんな騎士達が示す態度の中に、アンリは何らかの隠し事の存在を感じ取り、それがフィリアに関わる事ではないかと胸騒ぎを覚えた。
「貴方達は何故、そこまで頑なに俺の事を追い返そうとする。何か、妹の事を知っているのだな。妹が、フィリアがここに居るのならば、今直ぐにその身柄を返して貰いたい」
「莫迦な、貴様は我等を愚弄する気か!」
 その怒りの言葉の内に隠された騎士達の狼狽振りが、アンリが抱いた疑念に確信を与えた。
 アンリは、立ちはだかる騎士達を軽くあしらい、館の中へ入ろうとする。
「己っ!我が主たるガーヴェン公爵への反逆罪で、貴様を捕らえてくれるわ!」
一度はアンリにあしらわれた騎士達が憤怒にいきり立つと、その騒ぎを聞き付けた他の騎士達も集まって来る。
 アンリは、騎士達に包囲される前に、何とかこの場を切り抜けようと試みる。
 しかし、多勢に無勢である上に、武器を持たぬアンリに成す術が在る訳も無く、アンリは、周囲を取り囲んだ騎士達に一斉に襲い掛かられ、敢え無く捕らえられてしまった。

 騎士達に捕られてしまったアンリは、館の地下牢へと拘束される。
「小僧、貴様への裁きは、公爵自らが行いになられる。只で済むと思うなよ」
 騎士の一人が、牢獄の人となったアンリに、忌々しげに脅しの言葉を投げ掛けた。
「公爵に裁かれるのは、俺では無くお前達の方だ!その覚悟が無いのならば、今直ぐに俺をここから出し、妹の身柄を返せ!」
「喚くな、小僧。公爵が我らを裁くだと?中々面白い事を言うものだ。我らが公爵の事を良く理解している様に、公爵も又、我らの事を良く理解してくださっている。その我らが、公爵の裁きを受ける筈がなかろう」
 そう自信たっぷりに応えた騎士の言葉と態度に、アンリの心にあった期待と希望は打ち砕かれる。
「主たる公爵も又、お前達と同じ外道の輩という事か・・・」
 アンリは、目の前にいる騎士達と、その主たる公爵に対し、蔑みの眼差しを示した。
「公爵に対する明らかな不敬行為、これで貴様の死刑は確実だな。高々、妹一人の為にこの様な真似をしなければ、もっと長生きも出来たモノを。否、その妹のお陰で今迄とは大違いな、良い目を見られただろうに、愚かな事だ。何と言っても、公爵のお相手をするだけで良い暮らしが約束されるのだからな」
「まあ、我々にしてみても、公爵の気に入るような娘一人を連れてくるだけで安泰が得られるのだから、安いものだな」
アンリは、見張りの騎士達の交わす遣り取りの言葉に、からくりの全てを知る。
「全ては、公爵の下劣な欲望を満たす為の事だったのか!貴様達は騎士として、そんな恥知らずな真似をして恥ずかしくないのか!」
 アンリは、悔しさと憤りを抱いて、その感情を騎士達へとぶつけた。
「小僧、そんな風に偉そうな口を叩いていると、今直ぐに後悔する事になるぞ!」
 アンリの言葉に対して怒りを抱いた騎士の一人が、剣の柄へと手を掛けて脅しつける。
 アンリはそれに対し、怖じるどころか、更に鋭い眼差しで睨み返した。
「遣れるモノならば遣ってみろ!貴様達の様な名ばかりの騎士の手になどかかりはしない」
「生意気な事を抜かしおって!小僧、成敗して遣る!」
 騎士は、アンリの挑発の言葉に顔を朱に染めると、怒りの言葉と共に腰の剣を抜く。
 そして、他の騎士たちの制止を無視して、アンリを閉じ込めている牢の扉を開け放った。
 アンリは、自由の扉が開かれた事を内心で喜びつつ、殺気立つ騎士へと身構える。
「どうした、さっさとかかって来い!帝都の腰抜け騎士は、素手の相手でも恐ろしくて手が出せないのか」
「調子に乗るな!死ね、小僧!」
 騎士は、アンリの更なる挑発の言葉に益々いきり立って襲い掛かって来た。
 それに対しアンリは、冷静とも言える身のこなしで、向けられた攻撃の刃をかわすと、無防備となった騎士の背中に、渾身の肘打ちを叩き込む。
 そして、自分の反撃によって気絶した騎士が剣を手放すと、それを透かさずに奪い取った。
「剣よ、その身を以って、騎士の正義を示せ!」
 アンリは、握った剣を眼前へ真直ぐに構えると、騎士として戦いの誓いを捧げる。
 そして、残る見張りの騎士達へと突撃を仕掛けた。
 疾風迅雷の勢いで繰り出されるアンリの連続攻撃は、次々に騎士達を切り伏せて行く。
 アンリは、見張りの騎士達の全てを、その剣を以って退けると、彼らに止めを刺す間すら惜しんで、上階へと上る階段を駆け上がった。

「フィリアは一体、何処に・・・?こうなれば、ガーヴェン公爵自らに訊くのが一番早くて確実か・・・」
 館の廊下へと躍り出たアンリは、自問自答の後、探し求める存在の居所を知るガーヴェンを見つけるべく館内を探索した。
 ガーヴェンの姿を求めて館内を駆け回るアンリが、二階へと到らんとして、その階段に差し掛かった時、目指す先である階上の何処からともなく、大騒ぎする人々の声が聞こえて来る。
 アンリは、一縷の希望を胸に、その声の元を辿って走り出した。
 声を頼りにアンリが辿り着いた先は、その階の中央にある大広間の前であった。
 アンリは、目の前にある扉の先に、探し求める妹の姿が在ると、その直感めいたモノによって感じ取ると、焦る気持ちを抑え切れずに、それを勢い良く開け放った。
 巡察団による饗宴、それに興じていた者の全てが、アンリという闖入者に驚いて、一瞬言葉を失う。
「貴様、一体何者だ!これは、ガーヴェン公爵自らが主宰しておられる宴だぞ。それを知っての狼藉か!」
 正気を取り戻した騎士の一人が、周囲の静寂を破って、突然の乱入者たるアンリを問い質した。
 しかし、そんな騎士の言葉など、今のアンリの耳には全く入っていなかった。
 なぜなら、アンリの意識の全てが、その視線の先にある少女、唯一人に向けられていたからである。
「フィリア、無事か!」
 アンリは、捜し求めた妹、フィリアの姿を見つけ、その喜びに瞳を輝かせて叫んだ。
 しかし、それも妹を取り巻く状況を察した瞬間に、大きく一変する。
 フィリアの側に在って、その身を捕らえているガーヴェンの眼差しには、醜悪なまでに下卑たらしい好色の光が宿っていた。
「助けてお兄ちゃん!」
 フィリアは、孤立無援の地獄に現れた兄、アンリの姿に、救いの光を見出して、助けを求める声を上げた。
 何から助け、救い出すのかを、問う必要などなかった。
「ガーヴェン公爵よ、貴方の国主に仕える親臣たる身に有るまじき振る舞いは明らかとなった。人間たるその心に、自らの恥ずべき行為と、騎士としての正義を知る部分が在るのならば、速やかに我が妹の身柄を返していただきたい!」
 アンリは、ガーヴェンの人間としての心と、騎士としての誇り、その二つの良心に訴え掛けることで、最初にして最後となる説得を試みた。
 それは、今日まで想い憧れ続けて来た、父と同じ帝国騎士であり、それらを統べる兵団長である存在に対する信頼であった。
 しかし、それはガーヴェンが返した、侮蔑にも似た見下し嘲る眼差しによって、裏切り踏み躙られる。
「何故、この私が、貴様の如き下郎の言葉に従わなくてはならないのだ?小僧、生命が惜しいのならば、黙ってこの場から消え去るが良い」
「従う配下の騎士達が外道ならば、その主も又、同じ、否、それ以上に腐った性根をした外道ということか・・・!こうなれば、力尽くでも、妹の身柄を取り戻すのみ、覚悟!」
 アンリは、その憤怒を戦いの意志に変えて言い放つと、握った剣を構え直し、フィリアを救い出す為に、ガーヴェン目掛け突進する。
 そのアンリの行く手に、主を護るべく動いた騎士達が立ちはだかった。
「邪魔をするな!」
 アンリは、鋭い気合いが滲む、その言葉を言い放つと同時に、手にした剣で邪魔立てする騎士の一人を斬り伏せた。
 そして、仲間の負傷によって、他の騎士達が怯んだ、その一瞬の隙を見逃さず、アンリは、気迫の一薙ぎで、立ちはだかる敵を一気に蹴散らす。
 アンリは、そのまま騎士達の間を駆け抜けると、味方の様子に色を失ったガーヴェンの隙を突いて、その腕の拘束から逃れたフィリアの許へと至った。
 しかし、無事にフィリアを取り戻した事を喜ぶ余裕は、アンリに許されなかった。
 態勢を立て直した騎士達が、再びアンリ達の前へと立ちはだかったのである。
「(公爵を人質に取って抜け出すか・・・。しかし、それは・・・)」
 アンリは、騎士達と対峙する、その心内で一つの脱出の術を考え出すが、彼の騎士としての誇りが、それを行う事を躊躇わせた。
敵しか居ない館から、妹の身を無事に護りながら、脱出するという困難な戦いの活路を模索するアンリの心に、一瞬の隙が生じる。
そこへ、アンリ目掛けて、卓上に在った皿の一つが投げつけられる。
 アンリの剣が、反射的にそれを振り払うが、その隙を狙って、騎士達が一斉に、彼へと襲い掛かった。
「お兄ちゃん、危ない!」
 背後に在って危険を告げるフィリアの叫びも虚しく、アンリは、騎士達によって床へと組み伏せられる。
 更に、騎士の一人に腕を蹴られて、アンリは唯一の武器である剣を手放してしまった。
「くっ!」
 騎士達の囲みが解かれた時、そこには羽交い絞めにされて、悔しそうに呻くアンリの姿があった。
「お兄ちゃん!」
 慌てて、アンリの許へと駆け寄ろうとするフィリアの身体を、ガーヴェンが再びその腕に捕らえる。
「フィリアから、その汚い手を離せ!」
 フィリアを虜としているガーヴェンを睨んで、アンリは吼えるように叫んだ。
そして、何とか拘束を振り解こうと暴れるが、羽交い絞めにしている騎士の更なる締め上げによって、それを阻まれた。
「本当に、威勢だけは良い小僧だ。貴様の先程からの言動を見ていると、帝都で唯一この私に正面から歯向かう、あの若造の事を思い出すわ!口を開く度に、あの若造めが、私の行いが、皇帝陛下直属の騎士兵団長として相応しくないのだのと、口喧しく言いよって、何とも煩わしい輩よ!」
「貴様に、そんな事を言う人間ならば、さぞかし立派な人物なのだろうな。それは、是非に会ってみたいモノだ!」 
 アンリは、そう言い放って、ガーヴェンへと、蔑みにも似た眼差しを向ける。
「減らず口を叩くな!」
 言い放たれた怒りの言葉と共に、ガーヴェンの拳が、アンリの頬を激しく殴りつけた。
「お兄ちゃん!」
 殴られたアンリに代わって、見ていたフィリアの口から悲鳴が漏れる。
「これ位の事、平気だ。自由を奪って、抵抗の出来ない相手を殴りつける。公爵よ、確かに、騎士兵団長の立場にある者がするには、恥ずかしい行為だな」
 アンリは、殴られ切れた口から流れ出る血にも構わず、ガーヴェンを睨みつけ、その卑劣さを嘲笑う。
「殴りたければ好きなだけ殴れ!だが、これ以上卑劣な人間だと思われたくなければ、今直ぐに、妹を解放してくれ。それで帝国騎士の名も地に堕ちたりはしないだろう」
「何処までも癪に障る小僧だ。貴様みたいな綺麗事に縛られる人間は、幾ら自分の身を痛めつけられても決して屈したりはしない。しかし、他者が傷付けられる姿には、平気でいられないものだ。況してや、それが自らの生命をも顧みずに助け出そうとした実の妹が、自分の目の前で辱められたら、死ぬよりも辛く苦しいだろうな」
 ガーヴェンは、アンリにそう告げると、その腕に捕らえたフィリアを残忍さに満ちた眼差しで見詰める。
 そして、その言葉に主の趣向を知る騎士達は、それぞれが好色さに下卑た笑いを浮かべた。
「外道がっ!貴様達には人間としての心すら無いのか!」
 アンリは、激しく憤怒して、その怒りをガーヴェン達へとぶつけた。
「助けて、お兄ちゃん・・・」
フィリアは、ガーヴェン達が自分へと向ける、そのケダモノの如き眼差しに怯えて、唯一の味方である、兄アンリへと救いを求める。
「そうだ、怯えろ!もっと怯えるのだ!その方が、こちらも存分に楽しめるからな」
 ガーヴェンは、フィリアの示す反応に大いに満足し、残忍な愉悦をその表情に浮かべた。
「やめろ!やめてくれ!一体、フィリアが何をした!」
「フンッ、貴様達のような下郎を、私が好きにして何が悪い。貴様達の如き何の権力(ちから)も持たぬ下賤の輩は、私のように生まれながらにして、選ばれた存在の言いなりになっておれば良いのだ。小僧、覚えておくがいい。権力者に媚び、そのお零れを貪りながら生きて行く、それが貴様達のような下郎にこそ相応しい生き方だ。そして、それを今、たっぷりと教えてやろう」
 ガーヴェンは、アンリの懇願を残酷にも嘲笑うと、その腕に捕らえていたフィリアの服の胸元へと片腕を遣り、乱暴に引き千切った。
「きゃっ!」
 フィリアは、身の危険に悲鳴を上げると、必死の抵抗でガーヴェンの腕から逃れ、はだけた胸元を隠すように床へとうずくまる。
 そんなフィリアの姿に、その嗜虐性を刺激されたガーヴェンが、更なる愉悦を浮かべると、それを見ている騎士達の間から、卑猥な笑い声が漏れ出た。
 フィリアは、自らを取り巻く残酷な雰囲気に絶望し、その恐怖に耐え切れず、床にうずくまったままで、ガタガタと激しくその身体を震えさせた。
「お、お願いします。許してください・・・。公爵様・・・」
 震える身体を、自らの両腕で慰めるように強く抱きしめ、フィリアは恐怖で声にならないか細い声で、それでも必死にガーヴェンへと許しを請う。
 ガーヴェンは、非力な少女でしかないフィリアのそんな訴えを愉しそうに聞きながら、彼女の許に歩み寄って行くと、残忍にもその背後から、彼女が身に着けていた服を剥ぎ取った。
 そして、裸にされ涙を流して恐怖に震えるフィリアの腕を摑んで、その身体を乱暴に自分の方へと引き寄せると、床に組み伏せて無理やりにその貞操を犯す。
「やめろ!ガーヴェン、お前は人間じゃない。ケダモノだ!殺してやる。放せ、放すのだ!」
「フンッ、負け犬が・・・。ここで、大人しく妹が辱められる姿を似ていろ」
 最愛の妹たるフィリアの純潔を汚すガーヴェンに、烈しい憎悪をぶつけるアンリを、彼を羽交い絞めにしている騎士が、残酷な言葉で苦しめた。
「お願いします。もう、許してください。お願いします・・・。助けて、お兄ちゃん・・・」
 泣きながら、必死に許しを請う言葉を繰り返し、兄へと助けを求める少女を、ガーヴェンは情け容赦無く犯し続けた。
「フィリアーッ!お前達全員、一人残らず皆殺しにしてやる!」
 アンリは、ガーヴェンと騎士達に烈しい憎悪と憤怒をぶつけ、その瞳から流れ落ちる涙を振るい飛ばして、何としても自らの拘束を振り解こうと精一杯に足掻いた。
「煩い。興醒めする、そいつを黙らせろ!」
 ガーヴェンの指示に従い、騎士の一人が、抵抗し暴れるアンリの後頭部を、振り下ろした剣の柄で殴打する。
「お兄ちゃんっ!」
「済まない、フィリア・・・、俺は・・・」
 アンリは、痛みに薄れ行く意識を必死に繋ぎ止めて、己の非力さを呪うと共に、妹であるフィリアへと、護ってやれなかった事を詫びた。
 必死に繋ぎ止め続けた意識が失われるその時迄、アンリの瞳と脳裏には、地獄の苦しみに責め苛まれるフィリアの姿と、それに愉悦するガーヴェン達の残忍な嘲笑が刻み付けられた。
 そして、意識の闇へと堕ちる事も、今のアンリにとっては、救いなどではなく、地獄の苦しみでしかなかった。

アンリは、混濁する意識の底、闇の淵より目覚める。
「ここは・・・?そうか!」
 後頭部に在る激しい痛みによって、アンリは、薄れていた記憶の全てを甦らせる。
 アンリは、警戒の眼差しを以って、その周囲の様子を探るが、そこにガーヴェンと騎士達の気配は存在してなかった。
 アンリは、自分の脳裏に残る痛ましい記憶が、全て悪い夢であって欲しいと願うが、その瞳へと映った妹フィリアの無残に傷付けられた姿によって、残酷な現実を思い知らされるしかなかった。
「フィリア・・・!」
 『大丈夫か?』、痛いほどに、その現実を知るアンリには、続くその言葉を口にする事など出来なかった。
 身を包んだ衣服を剥ぎ取られ、裸の姿を晒すフィリアは、アンリの呼び掛けにも無反応なまま、焦点の定まらぬ虚ろな瞳で、何処か遠くを見詰めていた。
「フィリア・・・」
 アンリは、もう一度、妹へと呼び掛けて、その肩へと手を添える。
 それに反応して、フィリアの身体が、ビクッと大きく震えた。
「許してください・・・。お願いします!もうお許しください。皆さん、お願いします!お願いします・・・」
 正気を失ったままの瞳で、自らの身体を両腕に固く抱きしめ、フィリアはガタガタと激しく身震いしながら、呪文のように許しを請う為の言葉を繰り返し叫び呟く。
 その言葉からだけで、アンリは、妹がガーヴェン達から、どれだけ酷い恥辱を与えられたのかを思い知らされた。
 アンリは、抑え切れない怒りに震えながら、乱暴に身近な卓上の敷き布を取り、それを一糸纏わぬ妹の身体へ纏わせてやる。
「フィリア、もう大丈夫だ。誰もお前を傷付けたりしない。否、俺が誰にもこれ以上、お前を傷付けさせたりはしない!今度こそ、必ずお前を護ってみせる!」
 アンリは、固くフィリアへと誓って、その震える身体を強く抱き締めた。
 アンリの優しい想いに満ちた温かく力強い抱擁が、深い絶望によって壊れてしまったフィリアの心に、一時の正気を甦らせる。
「お兄ちゃん!私・・・。私・・・」
「良いのだ。もう何も思い出すな・・・。フィリア、お前は必ず俺が護る。だから、今は全てを忘れて、唯ここから逃げる事だけを考えるのだ」
 アンリは、苦しさに苛まれ嗚咽を洩らすフィリアを励まして、ケダモノの巣窟であるこの館から脱出するべく立ち上がらせた。
 そして、自らも足元に転がる装飾具の一部である金属のポールを拾い上げて、脱出の為の武器とする。
「行こうフィリア」
 アンリは、背後のフィリアへと告げて、大広間の扉に手を掛けた。
 扉には外側から錠がかけられていたが、アンリは、激しい体当たりでそれを破る。
 そして、廊下で見張っている騎士達を見て取ると、透かさずに振るったポールで次々に殴り倒した。
 フィリアが受けた辱めの事を思えば、そのまま殴り殺してやりたい相手ではあったが、アンリは、館から無事に脱出する事を優先させ、倒した騎士の一人から剣を奪い取ると、先を急いだ。
「フィリア、いざと言う時には、これで自分の身を護るんだ」
 アンリは、周囲へ警戒を配りながら館内を進む中で、万が一も敵に囲まれた時の事を考えて、フィリアへと護身の為に、長さも十分にある金属ポールの方を手渡した。
「うん、分かった。自分の身は自分で護るね」
「戦うのは万が一の時だけでいい。戦いの手を血で染めるのは俺だけで十分だからな」
 アンリは、決意の籠もった眼差しでフィリアを見詰め返し、再び脱出の為に急いだ。
「(ありがとう、お兄ちゃん・・・)」
 アンリが兄として、妹である自分を思い遣ってくれるその気持ちに心の中で感謝しながら、フィリアは黙ってアンリの背中を追って走り続けた。
 アンリは、大広間まで至った大体の経路を思い出しながら、館からの脱出口となる扉を求めてひたすらに走る。
「在った!急げ、フィリア」
 アンリは、廊下の先に通用口と思わしき扉を見付けると、背後にいるフィリアへと喜び混じりの言葉を掛けた。
 しかし、次の瞬間には、それが希望から絶望へと変わる。
 アンリ達が大広間から逃げ出した事に気が付いた騎士達が、二人を捕らえるべく、その行く手に現われたのであった。
 行く手に立ちはだかる騎士達、そして、その反対側であるアンリ達の背後からも、大勢の人間が近付いて来る気配が伝わって来た。
「くっ、このままだと完全に囲まれて、挟み撃ちか・・・」
 そうなれば、脱出できる見込みは皆無に等しかった。
 前後の行く手を遮られたアンリ達にとって、残された唯一の脱出口となりえるのは、明り取りの為に設けられた高窓だけである。
「『前門の虎、後門の狼』、ここは遣るしかないか・・・。フィリア、それを貸してくれ」
 アンリは、覚悟を決めると、フィリアへ持たせていたポールを渡すように言った。
 フィリアは、アンリが何をしようとしているのかは分からなかったが、言われるままにそれを手渡した。
「フィリア、危ないから少し下がって」
 アンリは、フィリアへと忠告して彼女をその背へ庇うと、受け取ったポールで高窓の硝子を叩き割った。
 そして、迫り来る騎士達へと、用の無くなったポールを投げ付けて威嚇し、透かさずにフィリアの身体を抱きかかえる。
「フィリア、目を閉じてろ!」
アンリは、そう告げると、助走の勢いを利用して、高窓を目掛け跳躍する。
 何としても妹を護りたいという必死の想いが、アンリへ常に勝る力を与え、その身体を高窓の許へと至らせた。
 アンリは、高窓の淵に手を掛けると、腕の力のみで自分とフィリアの身体を持ち上げ、そのまま外へと飛び降りる。
 そして、硝子の破片で切った傷にも構わず、館の中庭を駆け抜けて周囲を覆う森へと逃げ込んだ。
「フィリア、もう大丈夫だ。後はこちらの地の利を活かして、追手を撒くだけだから」
 アンリは、抱きかかえていたフィリアを地面へと降ろし、そう励ました。
「お兄ちゃん、本当にありがとう。そして、ごめん・・・」
「・・・話は後だ。行こう」
 アンリは、フィリアが涙を滲ませながら呟く言葉を遮り、その手を取ると再び走り出す。
 その胸には、兄として騎士として、ガーヴェン達の仕打ちから、妹であるフィリアの純潔を護り切ってやれなかった事に対する悔しさが存在していた。
 そして、自分自身の苦しみより先に、兄である己の苦しみを想う心優しきこの少女に残酷な仕打ちを与えた者達が、何よりも憎くて仕方なかった。
「フィリア、先ずはラニグ侯爵の許へ行こう。あの方なら、必ず俺やお前の味方になってくださる筈だ」
 ガーヴェン達によって粉々にまで打ち砕かれた騎士たる者への信頼、アンリは、その最後の一欠片を旧知の騎士領主へと託す事で、フィリアを励まし走った。

 その狙い通りに地の利を活かし、追手の騎士達を撒いて振り切ったアンリ達兄妹は、頼みの綱であるラニグ侯の館前へと無事に至る。
「フィリア、お前はこのままラニグ侯爵の許へと行き、保護して頂くんだ」
「お兄ちゃんは、一緒に来てくれないの?」
 フィリアは、アンリから告げられた言葉に、動揺にも似た心細そうな眼差しで尋ね返して、幼い子供のように兄の着た服の裾を握り締めた。
「ああ、俺は、連中の手が回る前に、俺達の家から必要なモノを取ってくる。あそこには、色々と大切なモノが置いてあるからな」
 アンリにとって、その行動の先にあるのは、もうこれ以上、自分にとって大切なモノを、ガーヴェン達の踏み躙られたくは無いという想いであった。
「それなら、私も一緒に行く!」
 アンリと離れ独りになるのが恐いのか、フィリアは、必死ともいえる態度で同行の意志を示した。
 それに対し、アンリは、困惑の表情を浮かべて首を左右に振った。
「連中の追手が何時現われるかも分からない。だから、フィリア、お前をこれ以上、危険な目に合わせない為にも、連れて行く訳にはいかないんだ。分かってくれ」
「私にとっては、お兄ちゃんの傍に居るのが一番に安全だわ。だから、私も一緒に連れて行って、お願い!」
 必死に懇願するフィリアの姿を前にして、アンリは仕方なく折れるしかなかった。
「分かったよ、フィリア。一緒に行こう。だけど、本当に危険なんだ。だから、十分に警戒し、決して気を抜くな」
 アンリが告げたその言葉に、フィリアは、真剣な面持ちで頷く。
 アンリは、それを確認すると、フィリアを連れ立ち、自らの家を目指して再び走り出した。

 アンリ達二人は、我が家のある町外れの一角へと至る。
 幸いにも、まだガーヴェン達による追跡の手が回っている気配はなかった。
 十分に警戒しながら、アンリ達は、我が家の中へと入る。
「フィリア、若しも連中と遭遇してしまった時の妨げとならない様に、持って行く物は出来るだけ少なくしておくんだ」
 そうアンリは、フィリアへと指示を告げると、自身はここへと戻って来た一番の理由である物の許に向かった。
「父さん、俺にフィリアを護る為の力を貸してくれ」
 アンリは、父の形見である剣を手に取ると、その切実な想いを祈りに込め、剣帯を身に帯びる。
 それから、アンリは、革の鎧と外套を素早く身に着けると、フィリアの許へと戻った。
「フィリア、準備は出来たか?」
「うん、あともう少し・・・」
 フィリアは、アンリの問い掛けに背中で答えながら、両親との思い出の品を荷物袋に詰め込み続ける。
 悲惨ともいえる自分の身なりにも構う事なく、懸命に亡き両親との思い出を持って行こうとする妹の姿に、アンリは、言い知れぬ哀れさを覚えた。
 そんな感情を必死に振り払おうとするアンリの耳に、迫り来る危険の音が聞こえて来る。
 微かながらも確かに聞こえた馬の鳴き声に、アンリだけでなく、フィリアも又、その身体を震えさせた。
 警戒を強めながら、慎重に身体を窓の陰へと隠し、外の様子を窺うアンリの瞳に、街道の先から現れた騎乗の騎士達の姿が映る。
 その数は二人と少なく、更に幸いな事に、騎士達は鎧を身に着けない軽装という出で立ちであった。
「フィリア、追手だ。急ぐんだ!」
アンリは、やや潜めた声でフィリアへと迫り来る危険を告げ、窓から離れる。
 その言葉に反応して、フィリアは、慌てるように急いで、残りの品々を袋へと詰め込んでいった。
「もう、これ以上ここに留まる事は危険だ。行くぞ、フィリア!」
 アンリは、フィリアを促し、その前にあった荷物袋を肩に担ぎ上げると、もう一方の手で妹の手を摑んだ。
 フィリアは、僅かに残る未練で、我が家の中を一瞥すると、自分の手を握っているアンリの手を握り返して立ち上がった。
 街道に面する正面口を避け、裏口から家の外へと出たアンリ達は、家の裏手にある低い崖を静かに下りると、その縁の陰から遣って来た騎士達の動きを窺い見た。
 騎士達は、アンリ達の家の手前より少し離れた場所で共に馬から降りると、その場の適当な所に馬の手綱を結び、足音を忍ばせながら家の側へと近付いて行く。
 入り口からそっと家の中の様子を窺い、そこが無人である事を知った騎士達は、一人が周囲への見張りにその場へ残り、もう一人が中へと入って行った。
 その様子を見たアンリは、絶好の機会と微かに笑みを浮かべる。
「フィリア、俺は連中を足止めして来るから、お前は、この先の街道筋の適当な所で身を隠して待っていてくれ、良いな?」
 アンリは、妹へとそう告げて、出来るかとその意志を確認した。
 それに対しフィリアは、一瞬は心細そうな表情になるが、直ぐにそれを承知して頷いた。
「他にも追手がいるかも知れないから、十分に気をつけてな」
「お兄ちゃんも気をつけて」
 アンリとフィリアは、互いの身を案じながら、暫しの別れをする。
 アンリは、フィリアが無事にその場を離れるのを確認してから、見張りに立つ騎士の死角になる場所から、ゆっくりと崖によじ登る。
 それから、アンリは、フィリアが愛しみ育てていた花々が生い茂る花壇の陰に身を隠すと、気配を殺しながら見張りの騎士に近付き、慎重にその距離を縮めて行った。
 相手に気付かれる事なく間合いを詰めたアンリは、騎士が己の存在に気付くのと同時に、抜き放った剣による見事な一撃で敵を斬り伏せていた。
 更にアンリは、異変に気が付いて家の中から現れたもう一人の騎士を待ち伏せにすると、透かさずにその両足を払い斬り、文字通りに足止めにした。
 自らの足元で転がりのたうつ騎士達を後目に掛けたアンリは、彼等の乗ってきた馬に近付くと、その二頭を見比べて足腰の強い方を選び、颯爽と騎乗する。
 そして、残ったもう一頭の手綱を手にした剣で断ち切り、その尻を剣の腹で打って逃がした。
 アンリは、自らが乗る馬にも剣の腹で鞭を入れて、フィリアの待つ街道の先へと走らせた。

アンリは、街道脇の陰に隠れていたフィリアと合流すると、彼女を馬に乗せてラニグ侯の館を目指す。
 途中、本道を避け裏道を行った事が幸いし、アンリ達は、追手に見付かる事無く、侯爵の住む館の前へと辿り着いた。
 アンリは、自身のみ馬から降りるとその手綱をとって、館の門を潜り抜ける。
 そして、来訪者たる自分達を出迎えたくれた侯爵の秘書官に対し、非礼を詫びつつも火急の用事として、その目通りの取次ぎを求めた。
 普段のアンリから考えて、その珍しいとも言える切羽詰まった様相と、何よりも共に在るフィリアの姿格好に、尋常ならざるモノを感じて、秘書官は、アンリ達をその場に止めると、主たるラニグ侯の許へ急ぎ足で取次ぎに向かう。
 戻って来た秘書官に案内され、アンリ達兄妹は、直接、侯爵の執務室に通された。
「アンリ、それに、フィリア、一体どうし・・・っ!」
 招かれ入って来たアンリ達に対し、執務中であった机より顔を上げたラニグ侯は、その瞳に映した二人の様子に、少なからぬ驚きを以って続けるべき言葉を失う。
 そして、それに対する答えを求める言葉の代わりに、一体何があったのかを視線でアンリに尋ねた。
「侯爵・・・」
 アンリは、妹の気持ちを考えて、ラニグ侯の側まで歩み寄ると、極力潜めた小声でフィリアがガーヴェン達から受けた仕打ちについて語る。
 アンリの口から事実の経緯が語られるにつれ、侯爵の顔が激しい怒りによって朱に染まっていった。
 そして、その怒りの眼差しは、苦しみを与えられたフィリアへと至った瞬間に、深い悲哀の色に変わる。
 ラニグ侯は、外に控えている秘書官に命じて、侍女の一人を執務室へと呼ぶ。
「今直ぐに、湯浴みの用意を。それと、彼女の為に、静かで落ち着ける部屋を一つ、整えておいて欲しい」
 侍女は、侯爵の言葉を受けると、丁寧なお辞儀をして、その命を果たすべく部屋から出て行った。
「フィリア、湯浴みで穢れを洗い流し、眠ってゆっくり、疲れた心と身体を休めれば良い」
 傷付いた少女の痛みを想い気遣うラニグ侯の瞳は、隠し切れない悲愴感と共に、優しい温もりで満ちていた。
「侯爵、フィリアへの心優しきお気遣い、誠に感謝いたします。どのように礼を述べれば良いか・・・」
「その様なことを気にするな、アンリ。お前達兄妹は、ワシにとってみれば、子供か孫の様な存在、それを気遣うのは当たり前の事ではないか」
 アンリにとっても、両親が亡き後より、自分達兄妹を何かと気に掛けてくれてきた侯爵は、実の父親の様な存在であった。
「それにしても、アンリ、ガーヴェン達の許より、良くぞフィリアを護り戻って来た。正に、立派な騎士であった父にも負けぬ勇敢なる働きであった。だが、公爵も簡単に諦める輩では在るまい・・・」
 ラニグ侯が抱いたその懸念は直ぐに現実のモノとなり、先刻の秘書官が、ガーヴェンがその配下の騎士達を何人か引き連れて、この館の前まで遣って来た事を知らせに来た。
「侯爵!」
「安ずるな、アンリ。これ以上、奴等の好きにはさせん。あの外道共が何を言おうとも、ここワシが追い返してくれるわ!いざとなれば、公爵と刺し違えてでも構わないのだからな」
 その身を案じるアンリに対し、侯爵は、決して冗談ではない言葉を軽口交じりに応えて、護身用の剣を手に執務室から出て行く。
「フィリア、お前は、ここで待っていてくれ。俺は、ラニグ侯と共に行って来る」
 アンリは、フィリアにそう告げると、急ぎ足で侯爵の後を追って、部屋から出て行った。

 アンリが、ラニグ侯の姿を見付けた時には、侯爵とその護衛の騎士達と、ガーヴェンとそれに従って来た配下の騎士達の両者が、互いに睨み合っていた。
「ラニグ侯爵、我々は唯、賊を二人ほど捕えようとしているだけの事。何故、その協力を拒み、更には邪魔をしようとするのだ?」
「ほお、賊、ですか?公爵殿、それで貴方の言う賊とやらは、如何なる罪を働いた者達ですかな?」
 ラニグ侯は、老獪にも顔色の一つ変えずに、ガーヴェンの尋ねすっ呆けると、何食わぬ顔で反対に相手の痛い腹を探り返す。
 それに対し、ガーヴェンは、憤りを隠し切れずに、悔しさも込めて歯軋りした。
「その賊は、我等が滞在する館に押し入った上、公爵に危害を加えようとし、館の内に在った騎士の十数名を傷付けて逃亡しただけでなく、その後も、追手の者を二人も斬り、馬を奪って逃げ続けている者達です」
 賢しい騎士の一人が、主たる公爵に代わって、ラニグ侯の尋ねに答える。
「我が帝国が誇る十七兵団の一つである《トリシュール》の騎士達十名以上をたったの二人で倒し、見事に逃げ延びるとは、何とも恐ろしい手練な賊ですな。しかし、残念ながら先刻も申し上げた通り、私は、その様な賊徒の事は、全く存じ上げません。それを我々がこの館内に匿っていると言われても、誠に心外としか言うしかありませんな・・・」
 ラニグ侯は、態とらしく怯えて見せる言葉の裏で、ガーヴェンとその配下の不甲斐無さを指摘する言葉を返すと、加えて、相手の言い掛かりを責める態度も示した。
「ラニグ侯爵、恍けるのもいい加減にするのだな。我が配下の騎士より、馬を奪った賊が貴公の館へと逃げ込むのを、確かに見たという者が居るのだ。これ以上、邪魔をするというならば、その罪が己の身に及ぶ事も覚悟して行うのだな」
 ガーヴェンは、一応の冷静さを取り戻して体裁を取り繕うと、してやったりと云わんばかりにラニグ侯へ糾弾の言葉をぶつける。
 しかし、それに対するラニグ侯の表情は、尚、その落ち着きを失っていなかった。
「確かに、公爵が今、仰られた様に、この我が館へと二人の者達が、遣って参りましたが、その者達は決して貴方達の探しておられる賊などではありません。その者達は、まだ若き兄妹なのですが、その妹が不埒なる輩共に攫われ、騎士である兄がその不埒者達から妹を助け出して、共に我が許へと逃れて来ただけの事です。兄であるアンリ・ラムリヒトより、その事情を聞くに、彼の誠実なる人柄に疑う事無く、私としてもその信頼するべき者を助けたいと望み、未だこの館に留め置いております」
 ラニグ侯は其処まで語ると、ゆっくりと意気を吸い込み、そして、次の瞬間、数多の戦場を生き抜いてきた騎士領主に相応しき、鋭いまでの視線でガーヴェンとその配下の騎士達を睨んだ。
「我等はこれより、件の不埒者達を見つけ出して成敗する為に忙しい身となる故、公爵の申し出に従う暇が見付かりません。わがこの身は、亡き先代陛下の恩により、この領土とそこに住まう民を護る務めを与えられております。公爵には、同じ領主たる身にある者として、どうかご理解を頂きたい。しかし、この度の公爵の不幸と、私の不幸を考えれば、我が領内に住まう民達の為にも、蔓延る賊徒共を一掃するべく、帝都でも名高い《神槍重騎兵団(グングニル)》の団長殿に、討伐の協力を頂けるよう皇帝陛下に申し出をするといたしましょうかな」
 ラニグ侯は、続けた言葉で、ガーヴェンの痛い腹を、更に抉って完全に黙らせる。
「く・・・っ!」
 ガーヴェンは、自らの疾しい行為を指摘されて反論する事も出来ず、その悔しさに再び歯軋りするしかなかった。
「ラニグ侯爵、貴公の考えは良く分かった。もう、これ以上の協力を求めはせん!」
「それは有り難い。それと公爵、我が領内で更にその賊とやらをお探しになるのは、貴方様のご自由ですが、こちらも先程お話した不埒な輩共を成敗する為に必死の身ですので、お互いに下手な諍いなど起さぬ様、気を付けようではありませんか」
 ラニグ侯は、そうガーヴェンへと警告の言葉を告げると、その意志を示すように腰に帯びた剣の柄へと手を遣り、相手を脅し返した。
「分かったわ!賊の事は、領主たる貴公に任せて、我々は巡査の任務を続ける」
「結構なお考えです。どうか、お任せあれ」
 悔し紛れに言い捨て配下の騎士達共々去って行こうとするガーヴェンの背中に向け、ラニグ侯は、その言葉と共に老獪な笑みに隠した鋭き眼差しで応えた。

 アンリは、見事にガーヴェン達を追い返したラニグ侯を、館の入口で出迎えた。
「侯爵、私達兄妹を匿うだけでなく、あのように強硬な態度を示されては、お立場を悪くされるのでは・・・」
「そのような事を気にする必要は無い。第一、あの愚か者には、あれ位の態度を示さなければ、こちらの意志も理解できぬであろう。あやつめが皇帝后妃の実弟でなければ、あの場で斬り捨ててやったものを!」
 ラニグ侯は、アンリに応えて、忌々しそうにガーヴェンへの憤りの言葉を吐き捨てた。
 怒り憤然たる様子の侯爵だったが、直ぐに冷静さを取り戻すと、アンリを促し、共にフィリアが持つ執務室へと戻るべく歩き出した。
 アンリ達が執務室に戻ると、そこには、フィリアと共に、先刻、侯爵から用事を言い付かった侍女が待っていた。
「侯爵様、お申し付けの通り、湯浴みとお部屋の御用意が整いました」
「うむ、ご苦労。では、そこにいる彼女を湯殿へと案内し、湯浴みの世話をしてやってくれ」
 ラニグ侯は、侍女の準備が整ったという報せに頷くと、改めて、フィリアに湯浴みをさせるように指示を告げる。
 その侯爵の言葉に恭しく頭を下げて承知した侍女が、フィリアに付き添うべくその身体に触れようとする。
「・・・っ!」
 フィリアは、侍女の手が自らの肩に触れた瞬間、声に成らない悲鳴を洩らして逃げる様に走り出し、ビクビクと大きく震えながら、怯えた眼差しでアンリへと縋り付いた。
「大丈夫だよ、フィリア。ここにいる人達は、誰もお前を傷付けたりはしない。だから、安心して行っておいで。俺は、もう少しラニグ侯爵とお話をしていくから、湯浴みを終えたら先に休んで、ゆっくりと眠っていれば良いから」
 アンリは、驚き唖然としている侯爵達の前で、幼い子供をあやす様に、フィリアの身体をそっと抱き締めると、穏やかな口調で言い聞かせた。
 それでもまだ落ち着きを取り戻さないフィリアを安心させる為に、アンリは、その頭を何度も優しく撫で上げてやる。
 フィリアの事を良く知るラニグ侯は、その信じられない程の変貌振りを目の当たりにして、彼女が受けた心の傷の深さを知り、その苦しさに強く胸を痛めた。
「フィリア、何も案ずるでない。そなたを傷付けようとする者が在れば、誓ってこのワシが、アンリと共に皆、成敗してくれるわ」
 兄であるアンリに続き、養父の如き存在であるラニグ侯からも、そう告げられたフィリアは、安心と落ち着きを取り戻し、その言葉に黙って頷くと、事態に困惑していた侍女の許へと歩み寄って行った。
「では、侯爵様、失礼致します」
 侍女は、ラニグ侯に丁寧な言葉で退室を告げると、フィリアを伴ない部屋から出て行った。
 そのフィリア達を無言で見送ったアンリとラニグ侯は、共に深い溜息をついて、そのまま沈黙し合ってしまう。
 そんな暫しの静寂の時を過ごした後、先に口を開いたのは、侯爵の方であった。
「アンリ、お前にとっても辛い事だと思うが、公爵達のフィリアに対する所業を、もう少し詳しく話してはくれまいか・・・」
 先刻見たフィリアの哀れとも言える変わり様を思い出して、ラニグ侯は、アンリの気持ちを慮り、その言葉を弱弱しくしながらも、詳しく知る事を必要として事の更なる子細を尋ねた。
 アンリは、そんな侯爵の人柄を信頼し、自らにとっても恥辱であるフィリアが受けた辱めの詳細を、その感情を必死に抑えながら淡々と語って聴かせた。
「そうか、其処まで残酷な仕打ちを・・・。私があの者達の饗宴を辞退する事無く赴いて行ってさえおれば、その様な外道の振舞いを許しはしなかったものを!本当に済まない、アンリ・・・」
 ラニグ侯の口から語られたその憤りと悔恨の想いは激しく、自らの不明を罪として、後悔に身を震わせていた。
 その侯爵の姿を前にしたアンリにしてみても、騎士の誇りに拘って非情と成り切れなかった故に、護るべき存在であるフィリアを、地獄の苦しみから助けられなかった、その自らの失態を悔い呪っていた。
「侯爵、この度の事は全て、私の配慮と騎士としての力量が足りなかった故の結果です。ですから、その様に御自分の事を責めないでください。貴方が、私とフィリアの為に、その身を惜しまずにしてくださった事へ感謝こそすれ、その様に詫びて頂く訳にはいきません」
 それは、アンリにとっての偽らざる正直な気持ちであった。
「それは違うぞ、アンリ。お前は、たった一人で大切な妹を助けるべく敵の巣窟に踏み込み、そして、見事にそれを果たした。その勇敢なる働きは、一人の騎士として、誇りこそすれ、決して恥じるべきものではない。その行いを責められるべきは、あのガーヴェン達外道共だ。奴等の非道なる行いは、騎士としては愚か、人間としても許されざるもの。それを許したならば、この国は、悪辣なる無法によって、蹂躙されてしまうだろう。何としても奴等に、厳しき裁きを与えねば成らん。しかし・・・」
 ラニグ侯は、フィリアを護って戦ったアンリの行為を認め、賞賛の言葉を掛けるが、それに対するガーヴェン達の非道を、如何にして裁くかの問題に、頭を悩ませて言葉を淀ませる。
 アンリも又、敢て尋ねるまでもなく、皇帝后妃の実弟にして、公爵という高い身分に在るガーヴェンを裁く事が、如何に難しく大変であるかを理解していた。
「アンリ、公爵達を裁く為の術については、ワシが考えておこう。今回の事では、お前もかなり疲れている筈、だから、フィリアと共にもう休むが良い」
 最後に、「本当にご苦労だった」と付け加えて、ラニグ侯は、アンリを労い身体を休めるように促した。
 アンリは、侯爵の言葉に張り詰めてきた心の緊張を緩ませ、僅かにその瞳へと涙を浮かべて一礼を返すと、秘書官に案内されて執務室を後にした。
 案内された先の部屋では、既にフィリアが床に就き眠っていた。
 辛い現実の内に在って、唯一の救いたる少女の寝顔を見詰め、アンリの表情が僅かに緩む。
「お休み、フィリア。せめて、夢の中では幸せでいてくれ・・・」
 アンリは、苦しみに痛む胸中でそう願い、妹の頬へとそっと口付けした。
 身に着けていた鎧を脱ぎ、それを形見の剣と共に、自分の為に用意された寝台の脇に置いて床に入ったアンリは、疲れ果てた身体に引き摺られるように、夢の世界へと落ちていった。


 夢すら見ぬ忘却の眠りから目覚めたアンリは、妹のフィリアと共に、ラニグ侯と朝食の席を同じくした。
 三人は、互いに最低限の言葉のみを交わして、その食事を食べ終える。
 食後に訪れた重苦しい雰囲気の中で、ラニグ侯がそこに在った沈黙を破って口を開いた。
「アンリ、フィリア、ワシも懸命に考えてみたのだが、今回の事を理由にワシの手で、ガーヴェン達へと裁きを与える事は、到底、難しいであろう」
 フィリアは、ラニグ侯の口から出たガーヴェンの名前に、悪夢の記憶を甦らせると、怯えてその身を震えさせる。
 そして、アンリは、侯爵の言葉に、絶望と悔しさの入り混じった表情を浮かべた。
 だが、ラニグ侯の言葉には、まだ続きが在った。
「現皇帝后妃の実弟であり、公爵の地位に在るガーヴェンの悪行を正せる存在があるとすれば、それはこの帝国の主である皇帝陛下、ヴァーベリト様、唯御一人であろう。お前達が帝都へ赴き、陛下の御前で直接、奴等の悪行を訴えれば、陛下の名を以って宮廷議会の法に則った裁きが下される筈。それを望むのなら、議会への手続きを行うが、如何だ、二人共?」
「しかし、侯爵、あのガーヴェンの如き輩に権力を与え、好き勝手にのさばらせているのは皇帝陛下自身です。本当に、ヤツが裁かれるのでしょうか・・・?」
 アンリは、ラニグ侯の提案に対し、ガーヴェンたち帝国騎士への不信を、帝国皇帝に対する不信として、その胸中にある不安を口にした。
「アンリ、お前の気持ちはよく分かるが、陛下とて、ガーヴェン達の残忍極まりない行いを知れば、それに重い裁きを下さぬ訳にはいくまい。それに、陛下の側に仕える者達の全てが、ガーヴェンの如き下劣な輩ではないのだ。現に、同じ公爵の地位にあるユラナド公ヴァン・ロディア殿などは、年若い身ながら領主として優れているのみでなく、帝国十七兵団でも最強と称される《グングニル》を率いる騎士団長としても、名実の共に最高の騎士と讃えられる立派な人物だ。彼の力添えが在れば、宮廷議会に於いて真実は明らかとされ、ガーヴェン達へと厳正なる裁きが下される筈だ」
「《グングニル》の兵団長であるヴァン・ロディア殿とは、それ程までに信頼の置ける人物なのですか?」
 アンリは、ラニグ侯が昨日もガーヴェンを追い返す際に、その名前を口にしていた事を思い出してそう尋ねてみた。
「うむ、彼は、騎士として戦場に臨めば、勇猛果敢、それを率いる兵団長としては、常に思慮深く、それでいて必要とあれば、大胆不敵ともいえる采配を振るう騎士の中の騎士。その人柄は、穏やかながら、人倫に外れた行いを憎み、それを正す為ならば何も恐れない誠の勇気をもっておられる。賢君として名高かった亡き父君の後を継いで、若くして公爵となったが、将来は、父君以上の名君になると宮中内に於いて噂されておる。私も、今回の事が無ければ、お前を彼の許に預けたいと考えていた位だ」
 ラニグ侯のヴァン・ロディアという人物に対する評価は、正に絶賛といえるものであった。
「帝国に、そのような立派な人物が・・・」
「何を言っておるのだ、アンリ。お前とて、帝国騎士となっておれば、十年も経たずに彼と並び評される存在となっていたであろうに・・・」
 アンリの言葉に応えて、ラニグ侯が口にした言葉、それは侯爵の本心であり、そして、彼がアンリへと抱いた夢であった。
「分かりました、侯爵。フィリアと共に帝都へと赴き、全ての事実を明らかにして参ります。その為の御尽力、どうかお願いいたします」
 アンリは、自らが決断したその意志をラニグ侯へと告げて、深々と頭を下げた。
「フィリア、お前もそれで良いか?」
「うん、お兄ちゃんが一緒なら・・・」
 それまで何処か虚ろな瞳で遠くを見ていたフィリアは、アンリの問い掛けを受けると、精一杯に笑ってそう応える。
 そんな風にフィリアが見せる哀れな姿に、アンリとラニグ侯は、その胸の内に痛ましさを覚えずにはいられなかった。
 そして、アンリ達二人は、これから赴く帝都にて、彼女の癒える事なき心の傷に、少しでも救いが得られる事を切に願った。
「アンリ、そうと決まれば、ガーヴェンの奴が汚い手段を講じる前に、帝都へと向かった方が良かろう。ワシの方も出来るだけ急いで準備する故、お前達も、何時でも出発出来るよう旅の仕度を整えておくのだ」
 ラニグ侯は、そう告げると、早速、宮廷議会に訴えるのに必要な書状等を書くべく、アンリ達を残して部屋から出て行った。
「フィリア、俺達も旅の仕度に取り掛かろう」
 アンリは、そう告げてフィリアの手を取り、共に部屋から出て荷物のある自室へと戻って行く。
 それまで騎士見習いとして遣って来た経験もあり、アンリは、自らの旅装を手際良く準備し終えると、フィリアの仕度を手伝って遣った。
「ありがとう、お兄ちゃん」
 アンリに手伝われて、旅装を整えているフィリアは、妙に明るく楽しそうだった。
「フィリア、平気、なのか?」
 アンリは、それを如何尋ねれば良いのか分からず、何処か曖昧な言葉で妹へと問い掛けた。
「どうして?お兄ちゃんと一緒に旅が出来るのだから、嬉しいに決まっているよ。楽しい旅になると良いね」
 嬉しそうに言って微笑んでいるフィリアの姿に、アンリは、彼女の心が無意識の内に、旅の本当の目的を忘却させている事に気が付く。
 ガーヴェン達の残酷な仕打ちによって、フィリアの心は、その自我を保つ為に、自らの記憶を歪めなければならない程、壊れてしまったのだった。
「そうだな。楽しい旅にしよう、フィリア・・・」
 アンリは、壊れてしまった心ごと、フィリアの身体を優しく抱き締め、その額にそっと口付けする。
 その心の痛みによって、幼児のようになってしまった少女は、兄の唇が触れた額のくすぐったさに瞳を細めて、微かな笑い声を洩らした。
 アンリは、フィリアの額に口付けを捧げたまま、その腰に帯びていた父の形見の剣に手を添えると、兄として、騎士として、目の前にいるこの大切な少女を、必ず護り抜くと固く心に誓った。

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